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執筆者の写真あじさいプロジェクト

【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動12 木村紀夫さん


2020年12月6日、現在もいわき市から大熊町に通い続ける木村紀夫さんにお話を伺いました。震災前ご両親、奥様、二人のお子さんの六人で暮らしていた木村さんは、津波で海沿いにあった自宅が流されてしまい、お父様と奥様と次女の汐凪(ゆうな)さんの三人を亡くされました。お父様と奥様の遺体は震災後2か月以内に発見されましたが、汐凪さんの遺骨の一部が見つかったのは震災から5年9か月後でした。



● 大熊町の教育・雇用と原発


中学校までは大熊で、高校は双葉町の双葉高校。東京の大学に行って、その後戻ってきて。20代の頃はちょっとブラブラしたことがあるけれど、他はずっと大熊です。


(熊町小学校に通っていた頃、大熊町について)学ぶ機会は多分あったと思うんですけれど、ちょっとしたお話だったり、それこそ東京電力のサービスホール*があって、そこに見学に行くこともあったんですけれど、ほぼ記憶にないですね。子供なので、そういうところに興味がなかったので。ただ、なんとなく原子力発電というのがどうなんだろうと、感じてはいたように思います。


*サービスホール:原子力発電のしくみや発電所の安全対策に関する展示のほか、地域住民の憩いの場として利用できる施設


(震災前)私の家のまわりに12軒あったんですけれど、7軒は農業をやりながら原発に行っていました。今から30年ぐらい前、職安(公共職業安定所)に行っても7割がた原発の仕事しかなかった。チェルノブイリ(の事故)があって、どうなんだと強く思うようになったので、(大熊町に)帰ってきてから原発の仕事をするつもりはまったくなかったですね。28でこっちに帰ってきて(富岡町の)養豚の仕事に就いた。

<お話をしてくださる木村さん (2020年2月)>




● 人と人のつながりがあった


うちらの地区は熊川という地区なんですけれど、伝統芸能的な稚児鹿舞(ちごししまい)、鹿舞は地区の長男がやるんですよ。私も小学校5年から中学1年までやった思い出もあるし、それは地元の諏訪神社でやってたんですね。


夏祭りとかも、諏訪神社の隣にある公民館でやったりとか。正月明けて集まって飲み会とか、稲穂づけって言って、木に紅白の餅みたいなものをつけて飾るみたいなものを作ったりとか。あと地元の年配のおじいさんたちが、縄もじりって言うんですかね。稲か何かを使って、縄を編むことを子供に教えたりとか、そういうことを公民館でやっていたので、やっぱり地区にとっては、そこでの営みの中でなくてはならない場所だったんじゃないかなと思います。



● 汐凪さんの捜索


一番最初は2011年の6月で、それから年3回、時間にして1回に2時間立ち入り許可をもらって、捜索に入っていました。海岸の瓦礫(がれき)を掘り起こして、一人で捜索。と言っても、2時間でやれる範囲って、本当に畳2畳ぐらいなので、それも次に来る時には波に洗われて、どこをやったかわからない。全然結果が得られない中で、2013年ぐらいからボランティアの方たちが、お手伝いに入ってくれるようになって、自分一人では手が出せなかった(2011年の5月6月に2週間、捜索に入った自衛隊が集めた)瓦礫の捜索をはじめました。


2014年6月、中間貯蔵施設の説明会に参加した時に、環境省の担当の方が、まだ行方不明者がいるということを知らなかった。それで(国には)関わりたくないという気持ちになってしまって、2016年までボランティアの人たちと捜索をしていました。


人だけをかけても最終的に全部終わらないだろうという瓦礫の山で、一緒にやってくれるボランティアの人たちのことも考えて、汐凪を見つけるという結果を出したいという思いもあり、最終的に環境省にもお願いして、2016年12月9日に遺骨が見つかりました。そういう状況で今があります。




● 震災前の営みが感じられる場所を残してほしい


熊町小学校ですが、子供たちが通った学校で、更に今現在、2011年3月11日のままなんですね。なので、汐凪が生活していた、そこで勉強していた当時のまま残っているんです。それは自分にとってすごい汐凪を感じられる場所であると同時に、原子力災害(の痕跡)として残せると思います。

<荷物や勉強道具が散乱したままの熊町小学校の教室 (2021年11月)>


みんなの全部荷物も勉強道具も、そこに置いたまま着の身着のままで避難せざるを得なかったという意味では、それはすごく(震災)遺構*になると思うので、他にないと思うんですね。周辺の町にも(小学校は)あるんですけれど、大体は今解体が進んでいて、残せない状況の中で、原子力発電所に一番近い熊町小学校一つぐらいは、ぜひ残してほしいということですね。その他にも、例えば、津波に流された場所とか、犠牲者を出してしまった場所とかもあるので、それは防災について学べる場所として残してほしい。


*震災遺構:大規模災害の被害や教訓などを後世に伝えるために、解体されずに保存される建造物のこと。小学校の遺構としては、2021年10月に浪江町立請戸小学校が震災遺構となった。


(土地の)造成もどんどん進んで、前の姿というものは、全部解体されてなくなっていく中で、震災前の営みをちょっとでも残しておかないと、そこで生活していた我々にとっては、非常に寂しい感じで。家を失うというのは、今の状況の中では仕方ないかもしれないけれど、例えば、神社とか、お寺とか、お地蔵さんとか、そういうものも各所に残っているし、公民館だったら、そこで祭りをしたとか、震災前の営みが残っているんです。それがあることによって、そこを追い出された自分たちも、そこに戻って、当時を思い出す材料になる。それがなくなってしまったら、もう何もない。

 

♦編集後記

震災前の営みが感じられる場所は、大熊町を訪れた人が震災当時の状況を具体的に想像するヒントにも、そこで暮らしていた方々が日常を思い出すきっかけにもなるという言葉が印象的でした。震災から10年が経ち、記憶の風化が課題となる中で、震災前の大熊町の営みや震災の教訓を次世代に残していくためにできることを考え続けたいと思いました。

【聞き手:塚原千智】




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