社会との繋がり。当たり前を疑うこと。そして、これからの日本とこれからの人々への願望。温さんのお話を伺っていると、等身大の自分で生きることに勇気をもらえたような気がする。
第3章では、そんな彼女の今と、まだ見つからない答えへの考え方を伺った。
人は、社会とつながるとき、その場面によって自分を使い分けますが、近年はSNS上でキラキラした面を演じる人も多いように感じます。このような風潮について気になることはありますか。
ーー私はTwitterとかInstagramをやっていなくて。言葉につまずく人にとっては、ハッシュタグが必要なSNSって向いてないのではないでしょうか。個人の承認欲求や自己表現の場としてのSNSは、闇を軽んじて光にばかり依存してしまうので、バランスが悪くなる。ただ、そうして明るくなりたい部分もあれば、落ち込んだりダークになりたいところもあったりして。全てをひっくるめたのが自分なのに、キラキラして賞賛されたい自分と、鬱に陥って可哀そうな自分がいるんです。SNSはそれを可視化するのでとても怖い。そこで、どんな自分をも受け入れるための策として、私は小説を介して晒すことを選んだのだと思います。
自分で溜め込んでおいたものに耐えられないとき、誰でもいいから何もかもさらけ出したいようなときもあります。そんな時、他のことをやるのも一つの手だと思うのですが、温さんは小説以外にお好きなことはありますか。
ーー散歩をしたり、ひたすらお笑いをyoutubeで見ています。家の小さな庭でだらだらと読書するのこともとても幸せです。ただしどれも受動的なことが多く、お家で空想することが1番好きです。
余白を大事にされてるのが素敵ですね。
ーー良い言い方。そうですね。私は、自分はある意味迷子になる才能があると思ってて。寄り道が好きなのかも。目的地なくぶらぶらすることがとても好きなんです。趣味の散歩では、どこか駅行って、そこからぶらぶら歩くだけとか、何の目的もなくやっていました。これはささやかな冒険だと思います。
あとは、目的もなくおしゃべりできる友達がいるかどうかで全く違います。私が大学生の時は、友人たちとだらだら何の目的もなく喋ることが救いでした。今となっては内容は何一つ覚えていないですが。雑談はやはり大事な気がします。人生の楽しみのほとんどは不要不急じゃないですか。だからこそ、そうしたことをたくさんしようと思っていました。
文学や芸術は不要不急ではないけれど、そこにこそ個性が現れるので魅力があるんですよね。
ーー1人1人違う世界を持っているじゃないですか。その世界を覗くことも冒険。読書は、安全な場所にいながらもいろいろな人の冒険を体験できるので素敵です。
そんな、温さんとは違う世界を持ってる方たちに対する気づきについて伺います。理解と共感は異なるものと思っているのですが、その境界線についてどうお考えになりますか。
ーーうまく答えられるかわからないですが、属性が異なるだけでこの人に偏見を持ってはいけないと思い込むのも、その人を属性で見てることになってしまいます。結局は個々人をどう見るかです。
私の場合その属性は国籍ですが、国籍が日本でない人たちと話している中で、とても話しやすい友人もいれば、すごく叱られそうで怖いという人もいます。 同じように、例えばトランスジェンダーの方でも、その人とだったら楽しく話せるのに他の人はとても緊張するということもあるので、その人との付き合いと社会行動をすると、彼らのような人々がさらに楽になるのかもと思います。少し切り分けた方がいいのかもしれない。私も悩みながらまだ考えてるところです。
それこそ、小説を書いて読んで発信するということがそれを乗り越える方法の一つにもなっているのだと思います。小説はすぐ答えを出さなくていいので、モヤモヤのまま、グレーゾーンの中でふわふわしてるままの存在を、文章に起こせる。私にとっては、それによって理解と共感の境目みたいなものを探してるのかもしれないと感じます。
小さな一歩でも、誰かの世界をのぞいてみること。安全で安心できる場所にいながらも多様な人の世界を知って考えることのできる読書は、立派な「冒険」である。その「冒険」は、きっと今自分が何者であるのかに悩む全ての人の背中をそっと押し、あるいは一度立ち止まらせて考える機会を与えてくれるだろう。何も最短ルートで達成しなくてもいいのだ。
等身大で、自分のありのままを生きる。自分を既存の枠の中に収める必要はない。グレーゾーンはグレーのままでいいのだ。
【インタビュイー:温又柔さん】
台湾出身の小説家。『台湾生まれ 日本語育ち』『「国語」から旅立って』の著者。2017年芥川賞候補作にも選出されている。
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